漢字までの距離をめぐる周遊 ──台湾旅行記

台湾人のUさんは、日本語が堪能な好青年。いま思い返すと、知り合ったのは奇蹟的だ。Uさんと半年ほどメッセージのやり取りしているうちに、海外旅行をとりまくコロナの霧が晴れてきた。かの地を訪れるのに、なんの躊躇もいらない。私の計画に彼は大喜びで、観光のお供をしてくれるとまで申し出てくれた。予定が空いているかぎり何日でも、と言わんばかりの口ぶり。
まさか、所帯持ちに何日も付き合わせるわけにはいかないが、彼の厚意を無下にもできまい。いくつか見物予定の観光スポットを知らせて、ほぼまる一日、行動を共にしてもらうのはどうかと尋ねた。十分に図々しいではないか。ところがなんと彼からの返信は、私が挙げたスポットを効率的に案内すべく、行動計画を立てようという内容だった。せめてものお礼に、手土産を増やすことにした。

こうして、Uさんと対面をはたしたのがひと月半ほど前のこと。薄暗い空を気にもとめず、われわれはずっと興奮気味で、朝からテンポよく台北市内をめぐっていった。予想をはるかに超える密度の高い観光になった──。Uさんのおかげで私の頭のなかにものすごい速度で蓄積されていく情報、それに反比例するように鈍くなる体の動き。いつの間にか空は晴れ上がり、南国らしい熱気が顔を出す。悲しいかな、中正紀念堂に向かうころ、中年男の足は止まりがちになってきた。
それは、蒋介石の巨大な像が鎮座していることで知られているホールだ。巨大な広場に巨大な門があり、ホールは門に対置している。門は名を「自由広場牌樓」という。アーチの中央上に「自由廣場」の四文字が、遠くからでもはっきり見えるよう書かれている。子どもの背丈くらいありそうな大きさの文字だ。
Uさんは、その文字が目に入るやいなやニコニコして、民進党が広場の名前を変えたのだと胸を張った。いわく、民進党が与党となったときに、蒋介石ひとりを王様のように崇拝するのはどうなのかという議論が起こった。そして、門に掲げられた文字は、広場の私物化を否定する目的で書き換えられたという。……どういうことなのだろう。
もとはと言えば、門には「大中至正」と書かれていた。蒋介石が、自分の名が入っていることから気に入り、座右の銘としていた言葉らしい(彼の本名は蒋中正だ)。この言葉、辞書的な意味は、「一方に偏らず、公正であること」「不偏不党」などとなる。もう少し調べると、「内なる聖人と外なる王の精神的実践」という、儒教の思想に通じる言葉であることがわかる。民衆を導く者は公正でなければならない、という意味合いを帯びることになるのだが、それは蒋介石を聖人や王と見なすことと不可分だ。ならば、いまの台湾における民主主義の精神とは相容れない、ということが理解できる。
蒋介石は、言わずもがな、二・二八事件を経て民衆弾圧・虐殺に踏み切ったときの中華民国政権トップ。そんな彼の像は、いまや広場に集まる人々から自由な視線を集めている。歴史の暗部をも照射すべく、台湾に育ったアイデンティティが補助線を引いたのだ。

ホールにたどり着き、ながい階段を登って蒋介石像を見上げる。像の頭上には「倫理」「民主」「科学」という言葉が掲げられている。像の左右に台があり、軍服に身を包んだふたりの儀仗兵が直立不動で立っている。それを大勢の観光客が見ている。
儀仗兵は1時間ごとに交代するのだが、その間ピクリとも動いてはいけない。想像するだに、しんどい仕事だ。と思う間もなく、彼らの背後に大きな扇風機があるのをUさんが見つけて、指摘した。どうも、以前訪れたときには存在しなかったものらしい。尻のほうから力強く風を送り込んでいる。
時計を見ると交代式まで13分あったので、雑談をしながら待つことにした。そのときにUさんは、台湾の兵役義務について自らの体験を交えながら話してくれた。台湾の成人男子には韓国と同じように兵役義務があるのだが、ほとんど意味をなさない形だけのもので、4か月まで短縮されている。これが海峡有事の影響で、1年に延長されるようだ。日本語で話しているから遠慮がなく、儀仗兵のいる前で、軍隊は組織内部が腐っているのだと事細かく批判を続ける。そんな話を楽しそうにしているUさんが、なんとも不思議だ。
時刻を確認して交代式まで残り5分だなと思ったところで、ふと会話が止んだ。あわてて何か話題はないかと見回すと、蒋介石の頭上に掲げられた言葉が再び目に飛び込んでくる。日本では、何か大事な言葉を3つ挙げるとしたときに、まず「科学」は入らないのではないか。ふと思いついて口にした。へぇ、そうなんですかと怪訝そうなUさんに、代わりに入る言葉はさしずめ「平和」だろうと、どこかで聞いたようなことを言った。
すると、彼は意外なことを言いはじめた。日本が明治維新によって近代国家への道を歩みはじめたころ、中国すなわち当時の清は、日本と同じように西洋に使節を派遣していた。ところが、その試みで西洋列強に追いつくことはなく、挫折に終わった。一方の日本は、列強諸国に追いつき、追い越そうという勢いになった。私たちが知るように、アジア諸国のなかで日本が一目置かれた大きな理由だ。
眠れる大国であったはずの中国と、島国の小国であった日本は、共通のターニングポイントを通過していたが、その後に明暗を分けた──。中華民国が「科学」の文字に込めた思いは、そこにあると言いたげだった。だが悲しいかな、いまでは当の日本人が忘れてしまった精神であるような気がしてならない。科学で築いたはずの資産をすり減らしていく日本……。

交代式は突然に始まった。なるほどそれは、ちょっとした見ものだ。ホールの片隅から新たに3人の儀仗兵がやってくる。中央を行進するのは上官か。兵隊が一歩ごとに静止し、時間をかけて歩を進める。一糸乱れぬ動き。
台から降りたふたりを迎え、5人が横並びになった。張りつめた空気のなか、決められた手順があるのだろう、銃剣を器用にくるくる回したりする。見ているこちらは、落としたりしないかとハラハラする。さあ、いよいよここで、上官の左右にいるふたりと交代するのだ。と思いきや、5人とも踵を返してホールの片隅へ歩を進め始めた。
そう、儀仗兵のお役は、本日これにて御免なのだった。