仮面ライダー、もっと跳躍を見せてくれないか。――『シン・仮面ライダー』鑑賞録

特別注目していた作品ではないが、YouTubeでオープニング・シークエンスを観ていたら居ても立っても居られなくなり、3時間後には映画館にいた。クモオーグ編から先は、思っていたのと違う感じに変調していったが、スピード感あふれる戦闘アクション、ときどき残る不満や疑問、感情を揺さぶられるシーンといった映像が、一直線のストーリーに乗って勢いよく駆け抜けていった。物足りなさが残る作品で、それでいて最高だった。不思議な映像体験だ。長らく忘れていた、新しいおもちゃを手にしたときの高揚感を思いだす。少しでも気になっているひとには、いますぐ画面を閉じて作品にあたってほしい。

庵野監督や仮面ライダーシリーズの熱狂的ファンではないので、過剰に肩入れするつもりはないが、ささいなことにケチがついていたのが気になった。例えば、よく指摘されるiPhone映像の使用。制作陣は撮影現場にiPhoneをずらりと並べ、貧乏マトリックスと自嘲気味に語っていたが、カットを採用したことに意図がないわけがない。目まぐるしくカメラが切り替わる格闘シークエンスに紛れ込むことで、視認能力を超えるスピード感を疑似体験させてくれた。
この作品は、主にテレビシリーズを体験したオールドファンと、未来のファンたる子どもに向けたものなのだろう。オールドファンに楽しんでもらうには、テレビシリーズの記憶を再生する映像を作らなければならない。しかし、あのチープな映像をどうリメイクすれば、目の肥えた大人が納得するクオリティになるのか。私は「仮面ライダーBLACK」を観て育った世代だが、元祖とも言うべき「仮面ライダー」には絶対的な憧れがあった。だけど、成人してから実際に鑑賞する機会を得たときには、もはや見れたものではなかった。蜘蛛男が吐きだす糸はビニール紐だった。本作のクモオーグはビニール紐を吐きだして大人を幻滅させたりしない。毒々しくもスタイリッシュなファッションに身を包み、アクションも洗練されている。
仮面ライダー」という存在も、冷静に見るとチープさを隠せない。ただマスクをつけた改造人間というのは、コスプレとの違いが紙一重ではないか。あのマスクには原作に準じた説明が必要だ。マスクも強化スーツも剥いだなら、醜い改造人間の姿が表われるというのは、説得力ある回答となる。なるほど、マスクは被り物でしかないから髪が出るだろうし、カパカパとずれるくらいの余裕もある。それが大人に向けた仮面のリアリズムというわけか。

作品に低評価をくだす人がいるのも理解できる。特撮ヒーローものらしい映像の残滓は消せないものだ。クモオーグが緑川ルリ子を拉致するときには、相変わらず市販の車を使っている。いざ仮面ライダーと対決、とカメラが切り替わると、どこに隠れていたのか10人もの下級構成員が左右にあらわれる。まあ、それらは原作オマージュではあるが、同じようなカット編集がこのあとも顔を出す。クモオーグは敗れ去るときに、「空中では、私が圧倒的に不利っ」とご丁寧に解説してくれる。このような展開ロジックは、特撮ヒーローものに慣れ親しんでいないと楽しめない。観る者に、実は高度なコンテキストが要求されている。
もっと重要なのは、庵野監督への「何か」の期待だろう。例えば「シン・ゴジラ」においては、原作の風刺の精神が、あらゆる表現を駆使して現代にアップデートされていた。さすがにマイスターと言いたくなる精巧な仕事ぶりだった。それを期待していたひとには、肩透かしだったかもしれない。例えば、本作の人工知能が人間の幸福を追求するという世界観はどうだったか。現代的で違和感なく受け入れられるが、それほどありきたりな設定だ。エヴァを彷彿させると言われがちな「ハビタット計画」。「プラーナ」を抜かれた「遺体」がずらりと並べられ、生きているのでも死んでいるのでもなく、人間が住めるところではない世界に行ったのだという不気味な説明。これは特撮ヒーローものにありがちな、観る者の恐怖を増幅させる必要不可欠の装置であり、それ以上でも以下でもない。難しく考えず、エンターテインメントに身を委ねればよい。

それでも、この作品には「何か」があるのだろうか。
NHKのドキュメンタリーで制作の舞台裏が明かされていたが、そこで庵野監督の表現者としての究極的な課題がひとつ示されている。それは、虚構をいかに現実にするか、だ。そしてその課題は、最大の山場となるアクションシーンにおいて、従来からある殺陣という見せかたを捨て、俳優陣の考えた泥仕合の採用に帰結したようだ。
はたして3人のライダーたちが命を賭けた死闘を演じると、プラーナが失われる寸前の、生身の人間に近い姿が立ち現れてしまうことになる。仮面ライダーは、驚異的なジャンプやスピン、キックといったアクションで成立するヒーローだ。アクションの派手さが失われたときに、細部の危うさが露わになる。マスクはカパカパと動き、スーツも皺が目立つようになり、虚構すなわち仮面が剥がれかかることで現実が顔をもたげる。
ライダーたちは吐血し、マスク越しの荒い息遣いが聞こえ、電池が切れたように減速していき、それでも必死に格闘する。それは例えば、「七人の侍」で野武士と若侍が演じた、生命を奪い合う泥沼の死闘を思い起こさせる。ライダーたちの姿は泥臭くて、スカッとしなくて、滑稽にすら見え、目を背けたくなるのだけど、頭に映像がこびりつく。いったい何を見せられたのだろうかと、映像が頭のなかをぐるぐる巡る。少なくとも、無様な姿を露わにしてでも何かを必死に伝えようとしているヒーローたちが、確かにそこにいた。何を受け取るかは人それぞれだ。
ヒーローものは、悪をいかに描くかという逆説的な課題を必ず突きつけられる。「シン・仮面ライダー」では、人類の幸福追求を軸に対立が生じている。目的の過ちはなく、そこにあるのは手段の過ちだろう。絶対的な悪は存在せず、多くの大人たちがすでに知っている現実世界に符合する。同じ方向に向かっていながら対立しているのだから、簡単には解決できない。問題から目を背けて嘯くのが「賢い」態度なのかもしれない。
やるせなさやもどかしさを抱えて日々なんとかやり過ごしていると、ヒーローたちが派手なアクションで敵をなぎ倒していくさまを観るのは気持ちが良い。だけど、その先には対立の頂点が待っていることもまた事実。だからこそ、信念をもって頂点を乗り越えていくヒーローたちの姿には静かな感動がある。本郷猛のような、等身大で、トラウマを抱えた新しいヒーロー像を知れば、現実の世界で頑張っているヒーローに気づくかもしれない。孤独を抱えているヒーローに、エールを送ることができるかもしれない。自分がヒーローを目指すという勇気が持てるかもしれない。子どものころに感じた、同じ世界のどこかにヒーローがいるという感覚が蘇ってこないだろうか。

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不満な面も多いが、それを補って余りある魅力が本作にはあり、語り尽くせない。
いずれも個性的なキャラクターたち、私にはリアルな映像との境目がわからないCGとVFX技術、感情にぴったり寄り添うサウンド、大胆な構図で印象的なシーンの数々……。

だから、緑川ルリ子が、本郷猛が、スクリーンから消えたとき、嘘だろうと思った。一文字隼人がひとりサイクロン号にまたがって颯爽と走り出したとき、むしろ不満と消えない渇望が残った。一文字隼人が感じた、ひとりだけ残された気分を味わった気がした。

だから仮面ライダー、もっと跳躍を見せてくれないか。