SNSという世界を覆う霧 ──『ミャンマー・ダイアリーズ』鑑賞録

映画の存在は、過去に何度もミャンマーを旅している年配のOさんに教えていただいたが、しばらく映画館に足を運ぶ気にはならなかった。自分に対して何か言い訳をして避け続けるような。暗い現実と、自分の無力さを突きつけられることが、必至だからだ。
ただただ支援のための寄付をしているほうが精神的な負担は軽く、事実そうしてきた。Oさんと共通の友人であり、人生の先輩であり、失礼ながら映画と縁のなさそうに見えたWさんまでもが観に行ったと聞いたとき、いよいよ行かなければという気持ちになった。
久しぶりの休み。意を決して当日券のネット予約を進めてみると、なんと全席空席ではないか……。日を改める? いやいやこの日を逃すと、次の機会には終映していてもおかしくない。ほのかな不安を押しやり開演10分前に入場してみると、数人の観客が着席している──。

緊張の面持ちで上映を待っていると、意外にも楽しげで軽快な音楽が突如スタートする。スクリーンには、だだっ広くてがらんとした広場のような場所を背景に、どうやらエクササイズに没頭しているらしいマスク姿の女性が映し出される。SNSで自撮り動画を配信しているのだろう。遠景には横一文字のゲートがあり、検問所らしきものが並んでいる様子がわかる。そこまでなら、場違いなところでエクササイズをしている面白動画とも言えるかもしれない。と、思う間もなく、続々と軍用車両がスクリーンの右端から現れ、一直線にゲートに向かい、途切れることなく消失点に吸い込まれていく。ミャンマーの軍隊とは、これほどまでに強靭な車両を保有しているのかと、ミリタリー方面に明るくない私は呆気にとられる。
不思議と気づいていないのか、エクササイズを続ける女性。軽快なジグザグ運動と、軍用車両の重々しくも整然とした高速走行が組み合わさる。いったい何の冗談かと唖然とする。このシュールな映像は、紛れもなくミャンマーの日常が切り裂かれ始めた瞬間を捉えたものだ。日常と異常の混在という矛盾する瞬間が、端的な映像として封じ込められたものだ。
補足しておくと、この冒頭の映像は、ミャンマー軍がクーデターを起こし、国会議事堂になだれ込んだ瞬間をたまたま捉えたSNS動画である。

映画は、複数の映像作家の手になるそれぞれの短編フィクションと、市民がSNS発信した複数のジャーナリスティックな映像からなる。いずれもストーリーとしては断片的で、私のようなミャンマー国外の観客は、やや難解な展開に戸惑うのではないだろうか。
そうしてスクリーンを観続けているうちに、すぐに気づく映画のルールがある。登場人物たちは、誰ひとりとして顔を見せない。いずれもまるで顔のない人間のように、横顔やうつむいた顔、マスク姿、後頭部、あるいは黒い袋を被った頭などを見せており、なにか影絵でも見せられているようだ。まともに顔を見せるのは犬や猫ばかり。やがて私たちは、登場人物たちの背後に無数の市民がいることを察知する。ばらばらの、揺るぎない事実を伝えるリアルな映像と、精神の深層を補完するリリカルな映像。つなぎ合わせる糊はどちらなのか? 相互に補完関係にある映像は、いつの間にか巨大な流れとなって脳内に飛び込んできている。
繰り返しテーマとして取り上げられている「別れ」にしても、様々な立場による視点の短編があり、結末もばらばらだ。ある者は死に別れ、ある者はすれ違い、ある者は絶望し、ある者は決意する。現実に問題に直面している市民の数だけストーリーがあることは、コレクトされたSNS動画から想像に難くない。
だが、そこで渇望される願いは、ただひとつ。

制作の困難さを反映してのことだろう、自室内での撮影を思わせる映像が多い。そこに映り込む家具や衣類、食器、雑貨、そして窓から見える都市の風景などから、どうしても平穏だった頃のミャンマーに思いを馳せてしまう。ミャンマーは意外にこんな国だったのか、と発見する感動をすっ飛ばし、こんな状況になってしまったのかということを先に知るのが残念でならない。
SNSは、一面的には世界の距離をますます縮めているように思える。私たちは今この瞬間にも、スマホを通してミャンマーからの発信にアクセスできる。手のひらの反対側にまで世界が迫っている。だがその直観は、正しいだろうか? 例えば、どれだけの人がミャンマーからの切実な発信を受信したのだろうか? 同じアジア人、仏教徒の多いミャンマーに関心を寄せる日本人はどのくらいいるのだろう。歴史的に縁が深いはずのミャンマー……。SNSの広がりとともに、ここ日本では何か大事なものがもやもやとした霧に隠されているのではないかと、不安になる。大事なものが見えなくなっているひとが、ますます増えているのではないか。霧を払うために、私たちは映像のなかの人たちに倣って、鍋やフライパンを叩かねばならないのではないか。自戒の念を込めて。

危険を賭して映像を届けてくれたミャンマーの若き作家たちの声が、そして自由を愛するミャンマー市民の心の叫びが、多くの人に届きますように。

漢字までの距離をめぐる周遊 ──台湾旅行記

台湾人のUさんは、日本語が堪能な好青年。いま思い返すと、知り合ったのは奇蹟的だ。Uさんと半年ほどメッセージのやり取りしているうちに、海外旅行をとりまくコロナの霧が晴れてきた。かの地を訪れるのに、なんの躊躇もいらない。私の計画に彼は大喜びで、観光のお供をしてくれるとまで申し出てくれた。予定が空いているかぎり何日でも、と言わんばかりの口ぶり。
まさか、所帯持ちに何日も付き合わせるわけにはいかないが、彼の厚意を無下にもできまい。いくつか見物予定の観光スポットを知らせて、ほぼまる一日、行動を共にしてもらうのはどうかと尋ねた。十分に図々しいではないか。ところがなんと彼からの返信は、私が挙げたスポットを効率的に案内すべく、行動計画を立てようという内容だった。せめてものお礼に、手土産を増やすことにした。

こうして、Uさんと対面をはたしたのがひと月半ほど前のこと。薄暗い空を気にもとめず、われわれはずっと興奮気味で、朝からテンポよく台北市内をめぐっていった。予想をはるかに超える密度の高い観光になった──。Uさんのおかげで私の頭のなかにものすごい速度で蓄積されていく情報、それに反比例するように鈍くなる体の動き。いつの間にか空は晴れ上がり、南国らしい熱気が顔を出す。悲しいかな、中正紀念堂に向かうころ、中年男の足は止まりがちになってきた。
それは、蒋介石の巨大な像が鎮座していることで知られているホールだ。巨大な広場に巨大な門があり、ホールは門に対置している。門は名を「自由広場牌樓」という。アーチの中央上に「自由廣場」の四文字が、遠くからでもはっきり見えるよう書かれている。子どもの背丈くらいありそうな大きさの文字だ。
Uさんは、その文字が目に入るやいなやニコニコして、民進党が広場の名前を変えたのだと胸を張った。いわく、民進党が与党となったときに、蒋介石ひとりを王様のように崇拝するのはどうなのかという議論が起こった。そして、門に掲げられた文字は、広場の私物化を否定する目的で書き換えられたという。……どういうことなのだろう。
もとはと言えば、門には「大中至正」と書かれていた。蒋介石が、自分の名が入っていることから気に入り、座右の銘としていた言葉らしい(彼の本名は蒋中正だ)。この言葉、辞書的な意味は、「一方に偏らず、公正であること」「不偏不党」などとなる。もう少し調べると、「内なる聖人と外なる王の精神的実践」という、儒教の思想に通じる言葉であることがわかる。民衆を導く者は公正でなければならない、という意味合いを帯びることになるのだが、それは蒋介石を聖人や王と見なすことと不可分だ。ならば、いまの台湾における民主主義の精神とは相容れない、ということが理解できる。
蒋介石は、言わずもがな、二・二八事件を経て民衆弾圧・虐殺に踏み切ったときの中華民国政権トップ。そんな彼の像は、いまや広場に集まる人々から自由な視線を集めている。歴史の暗部をも照射すべく、台湾に育ったアイデンティティが補助線を引いたのだ。

ホールにたどり着き、ながい階段を登って蒋介石像を見上げる。像の頭上には「倫理」「民主」「科学」という言葉が掲げられている。像の左右に台があり、軍服に身を包んだふたりの儀仗兵が直立不動で立っている。それを大勢の観光客が見ている。
儀仗兵は1時間ごとに交代するのだが、その間ピクリとも動いてはいけない。想像するだに、しんどい仕事だ。と思う間もなく、彼らの背後に大きな扇風機があるのをUさんが見つけて、指摘した。どうも、以前訪れたときには存在しなかったものらしい。尻のほうから力強く風を送り込んでいる。
時計を見ると交代式まで13分あったので、雑談をしながら待つことにした。そのときにUさんは、台湾の兵役義務について自らの体験を交えながら話してくれた。台湾の成人男子には韓国と同じように兵役義務があるのだが、ほとんど意味をなさない形だけのもので、4か月まで短縮されている。これが海峡有事の影響で、1年に延長されるようだ。日本語で話しているから遠慮がなく、儀仗兵のいる前で、軍隊は組織内部が腐っているのだと事細かく批判を続ける。そんな話を楽しそうにしているUさんが、なんとも不思議だ。
時刻を確認して交代式まで残り5分だなと思ったところで、ふと会話が止んだ。あわてて何か話題はないかと見回すと、蒋介石の頭上に掲げられた言葉が再び目に飛び込んでくる。日本では、何か大事な言葉を3つ挙げるとしたときに、まず「科学」は入らないのではないか。ふと思いついて口にした。へぇ、そうなんですかと怪訝そうなUさんに、代わりに入る言葉はさしずめ「平和」だろうと、どこかで聞いたようなことを言った。
すると、彼は意外なことを言いはじめた。日本が明治維新によって近代国家への道を歩みはじめたころ、中国すなわち当時の清は、日本と同じように西洋に使節を派遣していた。ところが、その試みで西洋列強に追いつくことはなく、挫折に終わった。一方の日本は、列強諸国に追いつき、追い越そうという勢いになった。私たちが知るように、アジア諸国のなかで日本が一目置かれた大きな理由だ。
眠れる大国であったはずの中国と、島国の小国であった日本は、共通のターニングポイントを通過していたが、その後に明暗を分けた──。中華民国が「科学」の文字に込めた思いは、そこにあると言いたげだった。だが悲しいかな、いまでは当の日本人が忘れてしまった精神であるような気がしてならない。科学で築いたはずの資産をすり減らしていく日本……。

交代式は突然に始まった。なるほどそれは、ちょっとした見ものだ。ホールの片隅から新たに3人の儀仗兵がやってくる。中央を行進するのは上官か。兵隊が一歩ごとに静止し、時間をかけて歩を進める。一糸乱れぬ動き。
台から降りたふたりを迎え、5人が横並びになった。張りつめた空気のなか、決められた手順があるのだろう、銃剣を器用にくるくる回したりする。見ているこちらは、落としたりしないかとハラハラする。さあ、いよいよここで、上官の左右にいるふたりと交代するのだ。と思いきや、5人とも踵を返してホールの片隅へ歩を進め始めた。
そう、儀仗兵のお役は、本日これにて御免なのだった。

仮面ライダー、もっと跳躍を見せてくれないか。――『シン・仮面ライダー』鑑賞録

特別注目していた作品ではないが、YouTubeでオープニング・シークエンスを観ていたら居ても立っても居られなくなり、3時間後には映画館にいた。クモオーグ編から先は、思っていたのと違う感じに変調していったが、スピード感あふれる戦闘アクション、ときどき残る不満や疑問、感情を揺さぶられるシーンといった映像が、一直線のストーリーに乗って勢いよく駆け抜けていった。物足りなさが残る作品で、それでいて最高だった。不思議な映像体験だ。長らく忘れていた、新しいおもちゃを手にしたときの高揚感を思いだす。少しでも気になっているひとには、いますぐ画面を閉じて作品にあたってほしい。

庵野監督や仮面ライダーシリーズの熱狂的ファンではないので、過剰に肩入れするつもりはないが、ささいなことにケチがついていたのが気になった。例えば、よく指摘されるiPhone映像の使用。制作陣は撮影現場にiPhoneをずらりと並べ、貧乏マトリックスと自嘲気味に語っていたが、カットを採用したことに意図がないわけがない。目まぐるしくカメラが切り替わる格闘シークエンスに紛れ込むことで、視認能力を超えるスピード感を疑似体験させてくれた。
この作品は、主にテレビシリーズを体験したオールドファンと、未来のファンたる子どもに向けたものなのだろう。オールドファンに楽しんでもらうには、テレビシリーズの記憶を再生する映像を作らなければならない。しかし、あのチープな映像をどうリメイクすれば、目の肥えた大人が納得するクオリティになるのか。私は「仮面ライダーBLACK」を観て育った世代だが、元祖とも言うべき「仮面ライダー」には絶対的な憧れがあった。だけど、成人してから実際に鑑賞する機会を得たときには、もはや見れたものではなかった。蜘蛛男が吐きだす糸はビニール紐だった。本作のクモオーグはビニール紐を吐きだして大人を幻滅させたりしない。毒々しくもスタイリッシュなファッションに身を包み、アクションも洗練されている。
仮面ライダー」という存在も、冷静に見るとチープさを隠せない。ただマスクをつけた改造人間というのは、コスプレとの違いが紙一重ではないか。あのマスクには原作に準じた説明が必要だ。マスクも強化スーツも剥いだなら、醜い改造人間の姿が表われるというのは、説得力ある回答となる。なるほど、マスクは被り物でしかないから髪が出るだろうし、カパカパとずれるくらいの余裕もある。それが大人に向けた仮面のリアリズムというわけか。

作品に低評価をくだす人がいるのも理解できる。特撮ヒーローものらしい映像の残滓は消せないものだ。クモオーグが緑川ルリ子を拉致するときには、相変わらず市販の車を使っている。いざ仮面ライダーと対決、とカメラが切り替わると、どこに隠れていたのか10人もの下級構成員が左右にあらわれる。まあ、それらは原作オマージュではあるが、同じようなカット編集がこのあとも顔を出す。クモオーグは敗れ去るときに、「空中では、私が圧倒的に不利っ」とご丁寧に解説してくれる。このような展開ロジックは、特撮ヒーローものに慣れ親しんでいないと楽しめない。観る者に、実は高度なコンテキストが要求されている。
もっと重要なのは、庵野監督への「何か」の期待だろう。例えば「シン・ゴジラ」においては、原作の風刺の精神が、あらゆる表現を駆使して現代にアップデートされていた。さすがにマイスターと言いたくなる精巧な仕事ぶりだった。それを期待していたひとには、肩透かしだったかもしれない。例えば、本作の人工知能が人間の幸福を追求するという世界観はどうだったか。現代的で違和感なく受け入れられるが、それほどありきたりな設定だ。エヴァを彷彿させると言われがちな「ハビタット計画」。「プラーナ」を抜かれた「遺体」がずらりと並べられ、生きているのでも死んでいるのでもなく、人間が住めるところではない世界に行ったのだという不気味な説明。これは特撮ヒーローものにありがちな、観る者の恐怖を増幅させる必要不可欠の装置であり、それ以上でも以下でもない。難しく考えず、エンターテインメントに身を委ねればよい。

それでも、この作品には「何か」があるのだろうか。
NHKのドキュメンタリーで制作の舞台裏が明かされていたが、そこで庵野監督の表現者としての究極的な課題がひとつ示されている。それは、虚構をいかに現実にするか、だ。そしてその課題は、最大の山場となるアクションシーンにおいて、従来からある殺陣という見せかたを捨て、俳優陣の考えた泥仕合の採用に帰結したようだ。
はたして3人のライダーたちが命を賭けた死闘を演じると、プラーナが失われる寸前の、生身の人間に近い姿が立ち現れてしまうことになる。仮面ライダーは、驚異的なジャンプやスピン、キックといったアクションで成立するヒーローだ。アクションの派手さが失われたときに、細部の危うさが露わになる。マスクはカパカパと動き、スーツも皺が目立つようになり、虚構すなわち仮面が剥がれかかることで現実が顔をもたげる。
ライダーたちは吐血し、マスク越しの荒い息遣いが聞こえ、電池が切れたように減速していき、それでも必死に格闘する。それは例えば、「七人の侍」で野武士と若侍が演じた、生命を奪い合う泥沼の死闘を思い起こさせる。ライダーたちの姿は泥臭くて、スカッとしなくて、滑稽にすら見え、目を背けたくなるのだけど、頭に映像がこびりつく。いったい何を見せられたのだろうかと、映像が頭のなかをぐるぐる巡る。少なくとも、無様な姿を露わにしてでも何かを必死に伝えようとしているヒーローたちが、確かにそこにいた。何を受け取るかは人それぞれだ。
ヒーローものは、悪をいかに描くかという逆説的な課題を必ず突きつけられる。「シン・仮面ライダー」では、人類の幸福追求を軸に対立が生じている。目的の過ちはなく、そこにあるのは手段の過ちだろう。絶対的な悪は存在せず、多くの大人たちがすでに知っている現実世界に符合する。同じ方向に向かっていながら対立しているのだから、簡単には解決できない。問題から目を背けて嘯くのが「賢い」態度なのかもしれない。
やるせなさやもどかしさを抱えて日々なんとかやり過ごしていると、ヒーローたちが派手なアクションで敵をなぎ倒していくさまを観るのは気持ちが良い。だけど、その先には対立の頂点が待っていることもまた事実。だからこそ、信念をもって頂点を乗り越えていくヒーローたちの姿には静かな感動がある。本郷猛のような、等身大で、トラウマを抱えた新しいヒーロー像を知れば、現実の世界で頑張っているヒーローに気づくかもしれない。孤独を抱えているヒーローに、エールを送ることができるかもしれない。自分がヒーローを目指すという勇気が持てるかもしれない。子どものころに感じた、同じ世界のどこかにヒーローがいるという感覚が蘇ってこないだろうか。

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不満な面も多いが、それを補って余りある魅力が本作にはあり、語り尽くせない。
いずれも個性的なキャラクターたち、私にはリアルな映像との境目がわからないCGとVFX技術、感情にぴったり寄り添うサウンド、大胆な構図で印象的なシーンの数々……。

だから、緑川ルリ子が、本郷猛が、スクリーンから消えたとき、嘘だろうと思った。一文字隼人がひとりサイクロン号にまたがって颯爽と走り出したとき、むしろ不満と消えない渇望が残った。一文字隼人が感じた、ひとりだけ残された気分を味わった気がした。

だから仮面ライダー、もっと跳躍を見せてくれないか。